2015年1月15日木曜日

慰安婦問題経緯おさらい(国内を中心に)


さて、今回は慰安婦問題のおおまかな流れを日本国内を中心にできるだけざっくり(と言いつつそれなりになってしまいます)とおさらいしてみましょう。他にもありますが、分かりやすいように特に重要だと思われる点を中心にご紹介します。(重要な部分をさらに加えるため、初回投稿時より一部加筆修正しました。意味の大きな変更はありません。)

《準備期》
①1980年代~詐欺師吉田清治氏が嘘話をばらまく。内容は朝鮮(済州島)で女性(及び男性→強制労働)に銃剣を突きつけてトラックに放り込み女子挺身隊の名で連れ去り実際は慰安婦にしたというもの。朝日新聞が中心となり、同氏をスターとして盛んに喧伝。(1982年~1990年代前半)ただし、この時点では具体的な「被害者」は登場しない。

《金学順さん他本物の元慰安婦が登場》
②1991年8月11日、今話題の朝日新聞植村隆記者(当時大阪社会部)が朝鮮人元慰安婦が実在したとの大スクープ。「女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、1人(金学順さん、記事中では匿名)がソウル市内に生存していることがわかり~」と金学順さん本人が言っていない内容で紹介。一方で金さんが親に売られてキーセン学校出身であった事伏せる。タイミング良く、3日後の8月14日に金さんが実名で登場し記者会見。

金さんの登場は、吉田清治の証言を裏付ける形となり、世界初の実在の慰安婦を紹介する大スクープであった。「生存していることがわかり」という表現を今改めて見ても「本当にいたんだ!」という印象を予備知識無しに初めて読んだならば受ける。なお、植村氏は現在まで「捏造はしていない、私は捏造記者ではない」と主張

韓国側団体の活動激化
③1991年12月6日、金学順さんを含む元慰安婦日本政府相手に訴訟開始。(後に敗訴)この訴訟を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会が支援。同会の幹部に植村氏の義母である粱順任氏。

《防戦していた日本政府に痛撃を与えて政府を大炎上・謝罪に追い込む
④1992年1月11日、朝日新聞が1面トップで「慰安所 軍関与示す資料」と報じる

なお、さらに悪質であったのはこの時の記事に付け加えた「従軍慰安婦の用語説明メモとして、「多くは朝鮮人女性」の見出しと共に「(ソースを示さずに、また証言内容の出鱈目振りから判断するに、場合によっては本物ではない?)元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる」と大変な誤解をもたらす内容で記載した。これは、例えば秦郁彦先生のような専門家を除けばほとんどの一般読者は「ええ!?そうだったのか」と思ってしまうのが普通であろう。

これを受け1月13日には早速加藤紘一官房長官が何が悪いのが分からない(何も決まっていない)状態であったにもかかわらず「衷心よりおわびと反省」と謝罪してしまう。おそらくはそれまで政府が「慰安婦は民間業者がやった事、軍は全く関与していません」と下手に隠そうとしたが故に墓穴を掘って混乱した事もあったと推測される。
 
この1月11日記事は宮澤首相の訪韓を5日後に控えたタイミングであり、それまで「従軍慰安婦は民間業者が連れ歩いていたもの」としていた政府は蜂の巣を突いた大騒ぎに。急遽首相訪韓キャンセルとも行かず、慰安婦問題の調査・事実確認や調整の時間も無く、大パニックに。

記事の出た翌1月12日以降、韓国でも主要各紙が大々的に報じ、韓国での慰安婦と挺身隊との混同も原因として「12歳の少女までもが強制的に慰安婦にされていた」との誤解も相まって韓国において大炎上となる。さらには首相訪韓開始日の1月16日には逆輸入の形で朝日新聞が「小学生まで慰安婦に」「韓国国民の対日感情が急速に悪化」とも報道。

結局、詳細な情報や今後の方針も無いままに宮澤首相が訪韓時盧泰愚大統領に8回も謝罪する事に。当然真相究明と善処を約束させられることに。

《日本政府が謝罪を加速
⑤1992年7月6日、加藤紘一官房長官が談話発表。政府の関与があった」「改めて衷心よりお詫びと反省の気持ち

今も大きな足枷として残る謝罪の決定版
⑥1993年8月4日、河野洋平官房長官談話(河野談話)発表。これが決定打となる。ポイントは
「おわびと反省」表明
本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり
「慰安婦集めに官憲等が直接これに加担したこともあった
さらに、河野談話文書中では書いていないのに記者会見で「強制連行の事実があったという認識か?」と聞かれた際に河野氏が口頭で
そういう事実があったと。結構です」と回答。何が「結構」だ!?
これを受けて韓国側は「日本政府強制連行を認めた」としてさらなる追及が激化。

首相のおわびと(民間の形態だが)補償へ
⑦1995年村山政権下においてアジア女性基金が設立され、元慰安婦への償い金や首相からの謝罪の手紙が渡される事業を開始。

未来を担う日本の子供達にも教育を通して誤解が広まる
⑧1990年代中頃には日本の高校教科書や中学教科書の多くに「従軍慰安婦」が登場し、子供達を汚染していく。

朝日新聞が執拗にキャンペーン&追い討ち
⑨この間(1991年1月~1997年頃まで)も朝日新聞は社説や記事で第三者委員会報告書(53ページ~)に記載されている主要なものだけでも20本程度(確認しきれないがそれ以外も含めればおそらくはさらに多く)、「日本は悪、慰安婦に補償せよ」との論調で執拗に攻撃を続け、また世論に訴え続ける。
 
この後1996年に国連クマラスワミ報告など韓国以外でも国際的な広がりやさらなる誤解も加熱していく。

どうでしょうか。私はこの一連の流れの中で閣議決定経ているいないなど関係無く、日本の国家として公式に罪を認めたと世界で受け取られている(それはそうでしょう)河野談話が決定打であったと思いますし、当時の政府のいい加減な姿勢も糾弾されるべきですが、河野談話を出さざるを得ない状況に政府を追い込んで行ったのは朝日新聞の報道が中心的な役割を担ったと理解しています。朝日自身も1994年に「政治動かした調査報道」と自認し、自慢していました。「重く受け止める」「捏造はしていない」では済まないんですよ。

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