慰安婦問題を拡大させた朝日新聞の植村隆氏は、自らの記事の加害性について一切頬かむりで、逆に自らを被害者として、「言論の自由」の象徴であるかのように悲劇のヒーロー的にリベラル派に担がれています。そして、世間が自らの記事に捏造との批判をしている事についても意図的な捏造はしていないと主張しています。
先日、元朝日新聞の同僚であり、近年朝日新聞の内情を示しつつこれに批判を加える前川惠司氏が植村隆氏の捏造否定について疑問を呈しています。
なお、前川氏を「元朝日新聞の信用できない人間だ」「泥船から逃げ出した」と批判する人もいますが、私は前川氏を批判すべきでは無いと思います。朝日新聞出身であっても今は足を洗い、内部者でしか分からない情報を提供し世のために役立っているのですから、こういう人物は大切にすべきと私は考えます。
さて、こちらの記事よりポイントをご紹介します。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150617/dms1506171830007-n1.htm
朝日元同僚が進言「植村元記者は裁判より朝生でケリつけろ」
・植村氏は言論人を名乗るならば裁判ではなく言論で決着をつけるべきだ。
・「裁判の判決イコール真実とはいえない、その意味で法廷で真実が明らかになるとも限らない」・・・これは興味深い、確かにその通りだと思います。
・問題の記事「思い出すと今も涙」(1991年8月11日)の取材経過について疑問がある。(ソウル特派員ではなく)大阪社会部員だった植村氏は「朝日新聞ソウル支局長が当時韓国北朝鮮の国連加盟問題で多忙であったため自分がソウルに呼ばれて記事を書いた」と主張しているが、疑問が残る。
・調べた限りでは、当時のソウル支局長が書いた8月中の国連加盟関連記事は7本で、外報面トップの4段のほか、ベタ記事が4本。応援が必要な多忙さだったのか疑問が残る。・・・このあたりの感覚は異業種や他社の人は分かりません、とても貴重な証言だと思います。
・そして、この(支局長が多忙であったため自分が呼ばれたという)弁解は(なぜかその後)意見陳述から消えている。
・植村氏は8月10日にテープを聞くと、(金学順氏本人と)会うことも名前も聞くこともできないまま、その日のうちに出稿した。本来はテープを聞き終えたら、提供した韓国挺身隊問題対策協議会に、「やはり本人に確認しなければ、記事にできない」と注文し、会って、事実であろうとの心証を得たうえで記事にするのが、こうした取材の基本だろう。何百万の読者がいる一般商業紙が信頼に応えるとは、そういうことのはずだが、そんなに急いで記事にしたのは疑問。
・翌8月12日朝日新聞紙面には朝日新聞主催の「歴史認識」をテーマにした広島でのフォーラムの特集記事2頁「過ちの歴史 率直に反省」があった。これとの関連もあるのではないか。特に広島は大阪本社管内で、大阪社会部員なら、東京本社を経ずに出稿できる。ここも気になる。
・植村氏は「24年前に書いた記事で激しいバッシングを受けている」として「自分は被害者だ」との主旨の主張を意見陳述などで繰り返している。しかし、本当の被害者は、十分な取材なしの記事を読まされた朝日新聞の読者であり、考えようによっては、日韓関係なのだ。そのことを、彼はどう考えているか。聞きたいものだ。・・・まさにその通りでしょう。
・植村氏は手記で、月刊「文藝春秋」1992年4月号で西岡氏から最初に批判された時に、朝日ジャーナル誌上で反論しようとしたが、上司らから「放っておけ」と言われたなどで、見送ったと書いている。商業新聞の記事は社会的存在だ。反論することがあれば、その時に反論すべきだった。今度も、西岡氏や櫻井よしこ氏らと「朝まで生テレビ」で論争してけりをつければ、大弁護団など必要なかった。「恫喝裁判では?」と疑われる所以だ。
元朝日新聞社記者でないと分からないような、貴重なポイントがいくつもあると思います。植村氏はこれらの疑問に明快に答える事はできるのでしょうか?
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